関西宮城県人会の概要

●役員名簿●

\ 出身・宮城の
好きなところ・良いところ /

名誉会長佐藤 勝
会長小林 正義名取市出身
「ゆりあげ港朝市」で頂く、名取市名産の「セリ鍋」は最高です!
副会長浅井 悦子石巻市出身
私の原風景…日和山から見る太平洋。近所の漁師さんからいただく、四季折々の魚介類。
副会長梅津 滋夫仙台市出身
気候、食べ物、そして人。すべてが程よく良い感じ。それが故郷の良いところ。
副会長真野 仁孝石巻市出身
宮城の粘りのあるお米、芳醇な旨味のある牡蠣、そして謙虚な宮城県人の気質が好きです。
会計幹事舩石 渉

●関西宮城県人会発足までの歩み●

関西宮城県人会の前身である「大阪宮城県人会」は、戦前は「大阪青葉倶楽部」と称し、宮城にゆかりがあった大阪府立商品陳列所所長山口貴雄氏の音頭により発足し、大阪市東区本町橋詰にあった大阪府立商品陳列所に事務所を充てていました。
その後山口氏のご逝去により、仙台市出身で初代大阪外国語大学学長の中目覚(なかのめ あきら)氏が会長に就任し、会の運営を担っていましたが、終戦直後に中目会長が大阪を去った後は終戦期の混乱により、事実上の休眠状態となりました。
しかし昭和29年、河北新報社大阪支社の働きかけによって大阪青葉倶楽部は再建されましたが、事務局担当者が本社に帰任したのをきっかけに大阪青葉倶楽部は衰退を余儀なくされます。
その後、県人会設立への機運が高まり、昭和30年代の半ば、河南町出身の日本生命外務員をはじめとする県人有志の活動を契機として、岩沼市出身の平塚養助氏と角田出身の佐藤萬作氏が県人会結成の呼びかけを行いました。そして昭和38年2月、平塚氏、佐藤氏両名をはじめとする7人が発起人となり準備委員会を結成、全5回の準備委員会を経て、「大阪宮城県人会」が発足しました。
その後昭和47年に「関西宮城県人会」に名称が変更され、現在まで活動が継続しています。